「より善い人格」を目指すならば、“武芸”などという暴力的な事を練習する必要などないのではないか?むしろその目的の達成において害になるのでは? そう思われる方もいると思います。
では、なぜ武識塾で敵を制する武芸を稽古するのか?その意味について少し述べたいと思います。
まず一つには技を受けたり、掛けたりすることでその独特の身体操作を学ぶことができ、それは充分な体育的な要素と共に、自分の身体を知り、相手の身体を知ることができます。
近年、古武術の身体操作法がブームになり、介護など様々な分野に活かされています。武道・武術での「崩し」などの技が応用されているのです。まさに敵を倒す技術を学ぶことの意義が示されている好例だと思います。
自分を知り、それを通じて他者を知り、人間の心身を知る。そのきっかけになる。
私が考える「敵を倒す術」を学ぶことの一つめの意義です。
空手の「一撃必殺」という言葉。仮にこの言葉を体現できる人がいるならそれは、その拳を相手に浴びせた瞬間に自分の人生も終わることを示しています。
素人のパンチならば一発殴っても相手は怪我だけで済むでしょう。罪に問われても傷害罪で済むかもしれません。
でも「一撃必殺」を手に入れてしまった人は違います。 何らかの事情で相手を殴り、一撃で倒して絶命させた。修行の成果を存分に発揮できた。でもその人は殺人者です。同じ一発の拳でもその結果の重さが違ってしまうのです。自分の練習していること、修行していることがいかに危険な技術であるか。十分に認識する必要があるのです。
技を習得していくことは自分の行動に責任を生み、自分の行動を見直すきっかけになり、より善き自分になる。心掛けさえあればその第一歩になり得ます。また、今の日本人には「自分の事は、まず自分でやってみる。出来ることは自分でする。」そんな覚悟が足りなくなっているような気がします。
武識塾の「武芸」とは善を脅かす事象に対する「備え」です。それが心構え、つまり覚悟を持って事に当たる稽古になっていきます。“覚悟”とは危険な状態や好ましくない結果を予想し、それに対応できるよう心構えをすること。
様々な困難が押し寄せる現代。善い人間でいるためには、様々な苦難を受け入れる「精神的な強さ」が必要であり、それには“覚悟”が必要なのです。 そんな“覚悟”という言葉をもう一度思い出しても良いのでは?と思うのです。そして「武芸」の稽古はその方法の一つだと思っています。